2017年2月6日月曜日

インド旅行記④



“ヴィパッサナー” (Vipassana)とは、『物事をありのままに見る』、という意味だそうです。この瞑想コースは10日間の合宿コースで、HPはだいたい読みはしたのですが、事前に本を読んだりネットのブログなどを探して内容を詳しく調べたりせず、ほとんど予備知識のないまま参加しました。自分としては、ちょっと教えてもらう、レッスンを受ける、くらいのやや軽い気持ちで応募した感は否めないのですが、終わってみると実際のところ、“修行”という言葉がぴったりくるような大変過酷なものでした。

4時に起きて夜の9時まで、途中途中休憩を挟みながらも110時間余り座って瞑想をします。また、Noble Silence (聖なる沈黙)と言って、この期間中、基本的にしゃべることは許されていません。“聖なる沈黙とは、身体・言語・精神の沈黙を指します。ジェスチャー、手話、メモ書きなど、一切のコミュニケーションは禁じられています(HPより抜粋)”


しゃべってはいけないことに関しては別に全く苦痛ではなくて、むしろ日本でも1年に1日くらいは『聖なる沈黙の日』というものを創って、家族間でもしゃべらない、お店も休み仕事も休み、電話はもちろん、運動も旅行も禁止、テレビも寄せては返す波打ち際とか、焚火とか、アリの行列とかを一日中流すような日があったらいいのにとさえ思ったのですが、とにかく決められた時間座っていなくてはいけない、動いてはいけない、という恐らく刑務所より自由を束縛された状態の10日間は長いです。10日って、普通に暮らしていたらなんとなくサラッと過ぎてしまう期間ようにも思えるのですが、ここではコースが初まって数日は、このコースが終わることが全く想像もつかない遥か先の遠~~~い未来のように感じて大袈裟でなく戦慄しました。





小さめ体育館の様なホールに個人個人決められた場所に座布団が敷いてあり、全員がそこで瞑想をします。1日目が終わり次の日には私の右隣がいなくなり、3日目、4日目にもポツポツ空きが出来ていきます。途中リタイアする方がちょこちょこいるのです。



5日目まできて、私の目の前の席で惜し気もなくプップップップやっていたMr.ヘッコキ君(あまりにも頻発するので自然と命名していた)も居なくなりました。前日の休み時間に誰かと二人でニコニコしながら林の方に石を投げて遊んでいた彼の姿を見かけたのですが、翌日、目の前にぽっかり空いた席を見て、その時の彼の、素っ頓狂だが無邪気な笑顔の意味を知りました。瞑想中一発こかれる度に、(おしりにも“Noble Silence”を適用してくれないかな。)と若干心を揺さぶられていた私は、正直ちょっとうれしかったのですが、そんな私は全然修行が足りないのでしょう。





私が参加したプシュカルのセンターでは男性はおおよそ40名弱程度でしたが、7名前後は途中でリタイアされたかと思います。後で聞いたのですが、このコースは4回目だという方によると、インドではほとんどの参加者は真剣で脱落者は少なめだったけど、オーストラリアでこのコースに参加したときには半数は途中でいなくなってたとのことです。

でも途中でリタイアしたみなさんの気持ちは私にもとてもよおく理解できます。たださすがにコレをメインの目的としてインドまではるばる来て、しんどいので途中で辞ーめた!となったらあまりにもヘタレすぎてご先祖様にも顔向けができませんし、下手したら一生の汚点になりそうだったので必死でした。



瞑想方法についてはここで説明することは控えます。実際に参加してみるのが一番だと思いますが、自分がぼんやりとこんな感じなのかなあと想像していたものとはだいぶ違いましたね。

4日目にようやくヴィパッサナー瞑想に入るときなど、『おぉっ、そう来るのかっ!』と膝を打ちたくなるような、何かマンガのような、例えば進撃の巨人で巨人の正体が明かされる時のような(昨年後半、完結を待ちきれずに全巻買ってしまいました。阿蘇ベース図書棚に置いておきます。)ドラマチックな展開で興奮しました。



コース期間中には私もそこで教わったことをある程度実践できていたと思います。10日間最後まで真剣にやり切った参加者は、程度の差こそあれ、必ず皆出来るようになるはずです。

もしこれがコースに参加せずただ口頭で教えてもらったり、ただ本などを読んだりしてやり方の知識を仕入れた方も同じように出来るものなのか、それともこのコースに参加して、Noble Silenceや朝早くから夜まで一日のほとんどを強制的に座って瞑想しなければならない、ある意味日常とかけ離れた肉体的にも精神的にも苦しい状況だからこそ身につけることができたものなのか分かりませんが、やはり後者のほうが身につけ易いことはおそらく間違いないと思います。

動かずに座っていること、というのは私のような未経験者にとっては想像以上に“肉体的に痛い”ことでした。痛みを観察する、客観視する、ということも重要なキーポイントになるのですが、ひとりで一日10時間動かずに座って瞑想してみよう、とたとえ決意したとしても、何か余程の動機があり、しかも相当強い意志をお持ちでなければ実際はなかなか実行できることではありませんからね。




しかし、本当に、最後まで、特にNoble Silence10日目に終わるまで、ずっと辛かったです。1日に3回、各1時間のグループ瞑想が、いわば本番ともいえる特に大切な集中しなくてはいけない時間なのですが、この10日間で、えっ、もう1時間経った?と感じることが出来たのはほんとにわずか12回くらいでした。あとは1時間経つ前に少なくとも一度はもうそろそろ終わりだろー、まだかなーって考えずにはいられませんでした。何度も言いますが、ただ座ること、たったの1時間、ただし全く微動だにせずに座っていることがこれほどまでに過酷なことであるとは今まで想像すらしたことはありませんでした。





コース終了後に、『池上彰と考える、仏教って何ですか?』という本を再読したのですが、“ブッタは消耗するばかりだった苦行に別れを告げ、現在のブッダガヤーにある菩提樹のふもとで静かに瞑想に入りました。”という記述があり、ちょっと引っかかりました。私は、(池上さん、“静かに瞑想に入りました”なんてそんなサラッと書きますけどね、仏陀は悟りを開くまで何日でもここから絶対に動かない!という火の出るような覚悟で瞑想に入ったんですよ(←と講和で習った)。ただフワッと静かに木の下に座ったんじゃあないんですよ。)と、恐れ多いですが池上さんに心の中で解説してしまいました。もちろんそれまで仏陀が歩んできた人生の積み重ねがあったからこそ、そのような決意を固めることが出来て、そうして瞑想に入り7日目に悟りを得ることまでもできたんだろうけど、私自身たったの1時間座って瞑想するだけでも(1時間絶対に動くまい!)とそれなりの覚悟をして始めていたのを思うと、ブッダの瞑想に入る前の覚悟の重み、凄みというのがもっと身に染みて理解できてより一層畏敬の念を持つようになりました。


〈続く〉 


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